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2015年11月20日

丸に抱き柏

mini丸に抱柏
ご先祖は四国徳島のご出身だったのかな・・・?
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chou23 at 22:27|この記事のURLComments(0)

2012年06月23日

岡崎詣で その3

伝間通りからバスに乗り約15分、旧本多邸に到着。
バス停から直ぐに建物が見渡せましたので、迷わずに研修会へと合流できました。
12年ぶりの旧本多邸は敷地面積が当初の三分の一に縮小されたため、庭や外構が整わず、雰囲気がかつて世田谷にあった頃と全く異なっていました。
コンパクトな敷地のなかでも単なる展示物とならず、利活用できる施設となるように、これから少しずつアイディアで補って行けると良いですね。

お〜っと、懐かしい写真が出てきました。2000年調査時のお昼時風景です。
2000年
何気にこの後復元工事担当となるお二人に、お陽さまのスポットライトが当たっているではないですか。おてんと様は知っていた!のかな?

食堂調査時の食堂。
この食堂前のテラスがお昼を頂いていたところになります。
食堂では家族だんらん賑やかな食事が行われていた訳ではなく、ご家族とは別にご主人が一人で食事されていたのだそうですよ。お殿様様式の暮らしが保たれていたのですね。
旧本多邸は昭和6〜7年建設ですから、調査時は竣工68年目。家具もカーテンも殆ど当初のままで使い続けられていたとのことで、カーテンや椅子の張り地は相当傷んでいましたが、家具全般とても良好な状態でした。

旧本多邸は丁度江戸東京たてもの園でご案内している4棟と同じ時期を生きた建物です。4棟はいずれも建坪約30坪で、うち3棟はモダニズムですが、旧本多邸は100坪弱のスパニッシュ様式建築。その間取りは主である本多忠次氏ご自身が何百もの図書を学んで基本設計をされたという建物ですので、ご自身の望む生活スタイルが反映されていると思われ、それは洋風となってもモダニズムではなく格式を重んじるお殿様様式ですから、間取りからも、外観からも、旧本多邸の方が時代の古さを感じます。

食堂照明器具こちらは復元の姿です。
復元では壁の着色が解かれ、
漆喰の白単色となっています。
この点に関し研修資料には変更箇所として特に記載されていませんでしたが、「着色は戦後GHQに接収された際施されたため、復元においては当初の漆喰のままの姿に戻しました。」ということでしょうか?
ibu殿教えて下され!

綺麗にメンテナンスされた照明器具が、喜んで輝いているようでしたよ。

今回の研修では私は照明器具ばかり写して全体の写真を全く取らなかったので、旧本多邸の全容に関心のある方はこちらのサイトからご確認下さいませ。
また、こちらのサイトでは調査時の状態をご確認頂けますよ。

長い間復元工事に尽力された皆さま、お疲れ様でした。これから旧本多邸が新たな地域に根づいていくことへ尽力される皆さま、宜しくお願いいたします。
少し歩いただけでしたが、岡崎っていい街だな〜という印象が残りました。
なんてったってお城があるんですしね、城址だらけの現代にすごいことです。
また訪れる機会がありますよ〜に!

2012年06月21日

岡崎詣で その2

ここからさらに坂を上れば六供浄水場がある・・・
行ってみたい・・・しかしそれには時間が足りない・・・

ので、坂を下ってテクテク。石原邸1
江戸期に建てられたという看板のある商家をみ〜っけ!
戻ってから調べると、少し前まで石原邸's Cafeとして利活用されていたようです。
昨年登録有形文化財となったようですので、また新たな活用の試みがなされるのではないでしょうか。
ちなみにこのお宅、河瀬直美監督のドキュメンタリー映画『玄牝』で取り上げられた吉村医院の院長夫人のご実家なのだそうです。
石原邸格子
格子のデザインも細やかです。 
       ・・・・・
花崗町へ入りました。ここはその名の通り石工さんの町の様です。
今でも石材店が軒を連ねています。新美栄太郎店
新美栄太郎さんのお店。
石材店の前は運搬時道路と段差が生じないよう歩道がデザインされています。
花崗町
きれいな緑青の色
河野石材店
河野石材店。店先には常夜燈。
常夜燈
     あちこちにある常夜燈
       ・・・・・
ようやく岡崎宿27曲がり道である伝馬通りに入ってきました。
岡崎信用金庫
大正6年建築の旧岡崎銀行本店。鈴木禎次氏の設計
旧岡崎銀行本店2
赤レンガと地元産御影石(花崗岩)のコンビネーション。
お肉屋さん
重厚な佇まいのお肉屋さん(永田屋)、その軒続きには紙屋さん(糸惣屋)。

だんだん町の雰囲気が掴めてきた!というところで時間切れ!!
伝間通りを走るバスに乗って旧本多邸のある東公園へと向かいましたとさ。
岡崎は歩き甲斐のあるい〜い町のようです。またの機会をぜひ!

それにしてもああ、暑かった!そして、お腹すいた〜!!

2012年06月20日

岡崎詣で

台風一過、唐突に暑いですね〜
昨夜の風雨は帰宅の足を煩わせました。
皆さま、ご無事でしたでしょうか?

さて、先日、岡崎市まで旧本多邸復元工事竣工研修会に行って来ました。
2000年に解体保存調査に携わった旧本多邸が、12年間紆余曲折を経て、
ようやく復元の運びと相成りました。
昨日は岡崎も台風4号の強い影響を受けた様です。川辺のいい景色を醸し出していた乙川、氾濫被害はだいじょうぶだったでしょうか?
せっかく岡崎へ出向くのだからと私は早朝出発し、岡崎の街を少し散策する時間を確保。その際乙川沿いもテクテク歩いてみたのですね。

ターミナルの豊橋ではゆるキャラTOYOCKYがお出迎え。
Toyocky





TOYOCKYはあまり緩くないキャラクターですね。鬼と豊の字のハーフのロボットなのだそうです。
歩き方にロボットを感じてあげて下さい。
TOYOCKY

豊橋から名鉄線に乗り換え東岡崎へ。
岡崎城岡崎といえば岡崎城、と思っていたので、
駅から乙川沿いをテクテク歩いて 一応行ってみました。旧本多邸の主、本多忠次さんは世が世ならばここのお殿様だったかもしれない方ですしね。
しかし時間がないので眺めただけ。
直ぐに城を後にし城下町の名残りを探しにテクテク。許された時間は2時間。
ああ、あわただしい。
とりあえず旧東海道岡崎宿27曲がりを行ってみようと歩き始めるもすぐに脱線。
街の気配やら町名やらに惹かれるまま歩いてしまい六供町へと入り込みました。

すると・・・

坂の上に赤い屋根の洋館発見!
坂道も苦にならず、グングン惹きつけられて行きました。
赤い屋根の洋館2
ヒップゲーブルに渦巻きの止め瓦ヒップゲーブル
ああ、この家にはどんな方が住まわれているのでしょうね〜?知りたいな〜〜
そんな時には・・・ 『ピンポ〜ン♪』

と押す勇気・・・、私にはありませんでした。

報告は次回へとつづく・・・

chou23 at 09:48|この記事のURLComments(0)

2009年11月08日

混沌

今回の新潟行きでは中越地震(2004年10月23日)から5年経過した現在、未だ地震で傾いたままになっている神社の姿を視察してきました。
神社の構造が云々というよりも、地盤が割れる、崩れるという生々しい現実の方が印象深く、頭の中は混沌としたままです。

木籠集落ここは中越地震で水没してしまった家屋がまだ残る木籠集落。
画像はクリックすると大きくなります。
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2009年11月03日

戻りました。

山古志村の棚田
黄葉と雪景色

山古志村の棚田は雪景色。
きょうの新潟は雪でした。
新潟でも11月初めに降ることは珍しいとのことです。
雪景色に黄葉が映えて美しい。


2009年07月18日

数寄屋

数寄屋近代の数寄者として掲げられる方のお茶室を調査させていただきました。
この建物は移築されることが決まっています。
良質な建物が取り壊されることなく使い続けられて行くということは本当に喜ばしいことです。


今日のような蒸し暑い中での調査はなかなかハードではありましたが、気心の知れた面々との共同作業でしたので、楽しく乗り越えさせて頂きました。現代建築では触れることのできない仕様を学ばせて頂くことができ、大変貴重な機会となりました。本当に有り難いことです。


2009年03月11日

『トトロの家』 もう、復元はあきらめるのかい?

力湧く存在感
杉並区によって保存が決まっていた阿佐ヶ谷の通称『トトロの家』が先月14日未明火災に会い、現在はこんな状態です。鼻から復元あきらめモードになってしまいそうですが、転用可能部材拾い出し作業で一日この場にいるうちに、なぜか復元可能だという力が湧いてきました。何がそう感じさせたのか・・・。それは庭の樹木です。
この家と一緒に育ってきた金木犀や泰山木、薔薇、百日紅。
特に金木犀は見事です。80年という年月が成し得た成果です。
杉並区の山田宏区長、「200年住宅」なんて言う前に、ここですよ、ここです。
この禍を福と転じさせる力がなければ、200年住宅なんてありえません。

この家は、「住む人の心根が偲ばれる・・・。そんな家を訪ねた。」という書き出しで始まる1991年初版の『トトロの住む家』宮崎駿著で巻頭に紹介されています。
宮崎駿さんスケッチ

天水の池上は宮崎駿さんのスケッチ。
左が現況。天水を利用した池には今も赤い金魚が泳いでいます。

長い間この家で暮らしていた近藤さんは庭の思い出を話して下さった時「今、消火作業などで庭が踏み固められてしまって傷んでいるけれど、調査解体が終わったら、掘り起こしてなんとか庭を復元させてみようと思っているの。」と仰っていました。近藤さんは80を過ぎていらしゃるとは思えない、とてもチャーミングなご婦人です。


2009年01月19日

花田文栄堂

花田文栄堂現在、江戸東京たてもの園では、「村上精華堂」「武居三省堂」など、いくつかの商店建築が看板を修復中です。
先日、看板修復作業を担当されている駒込の「花田文栄堂」さんにお邪魔して、看板の金箔貼りの工程を見学させて頂きました。
花田さんは昭和29年に「花田金文字店」として木製金文字を主体とした看板業を創業され、現在はサイン全般に仕事を拡げられています。

前回ご紹介した書籍『看板力』には「花田文栄堂」さんが紹介されています。

切り出し文字『三省堂』既に仕上がっていた「三省堂」の看板は、戦後に生まれたという「切り出し文字」に黒漆仕上げ。戦前までは額彫りと言われる板に文字を彫り込む手法が一般的だったとのことですが、戦後切り出しが誕生したきっかけは何だったのでしょう?
単純に材が少量で済むということは、考えられますね。それに伴い看板の軽量化。
極上と言われた金箔仕上げではありませんが、黒漆の艶が何とも色っぽい。
黒漆は生漆に顔料を混ぜて調合するのだそうです。顔料とは鉄粉や水酸化鉄のことでしょうか?お尋ねし損ねました。

作業手元こちらは同じく「三省堂」の外壁二階部分に掲げられている扱い品紹介看板。「硯」という切り出し文字に金箔を押しているところです。
屋号は黒漆仕上げですが、商品名は金箔貼り。これは商品第一!とお店の心意気を表しているのでしょうか?
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2008年04月25日

千葉教会 教会堂

千葉教会
先日、千葉県庁近くにある『千葉教会』の教会堂保存修理工事の現場見学会に参加してきました。
1895年(明治28年)工期約2か月で建設された建物ですが、100年を越えて現存しています。設計はドイツの建築家リヒャルト・ゼール。ゼールによる東京三田に新築された美以教会会堂の設計図を貰い受けたのだそうです。
施工は東京の大工近江某。
当初正面左手にに尖塔があったのですが(教会HPの表紙スケッチ画参照)、竣工16年後、明治44年の台風により倒壊していまいました。

柱脚部今回の修理工事は神父の娘さんがひょんなことから柱根元の傷みに気付き調査を依頼したことがきっかけとなったそうです。柱を仕上げ材が覆い隠す大壁造りですので重要な構造材が普段は目に触れません。
傷んだ柱の根元を交換するために一旦柱を土台から外して建物ごと持ち上げる「揚家」をすべく、既に柱脚部には鉄骨が渡されていました。

以前岩瀬建築さんには曳家工事の見学でもお世話になったのですが、今回は移動が上下のみとはいえ、古い建物ですから揚家の瞬間は緊張が走ることでしょう。
基礎は煉瓦6段積み(幅230)フーチングに当たる箇所3積み。その下部はコンクリートで厚み240。土台は背150幅165、柱は165□。続きを読む