2019年01月11日
神ノ島教会
お正月休みには昨年に続き、長崎の教会建築を探訪致しました。
まずは、歴史のおさらい
1549年 ザビエル神父鹿児島上陸(キリスト教日本伝来)
1569年 織田信長キリスト教布教を許可
1582年 本能寺の変
1596年 サン=フェリペ号事件
1597年 豊臣秀吉26聖人処刑
1614年 禁教令の発布
1637年 島原の乱
1797年 外海から五島列島へ108人が入植。その後約3000人が続く。
1853年 ペリー来航
1864年 日本26聖人殉教者聖堂(大浦天主堂)竣工
1865年 信徒発見
1968年 五島崩れ
1873年 キリシタン禁制の高札が撤廃(キリスト教黙認となる)
神ノ島教会(建設:1897年)。長崎駅からバスで25分程のところにあります。神ノ島は地名ですが、戦前まではその名の通り舟でしか渡れない小さな島で、交通の不便さは禁教となったキリスト教をかくれ信仰を守り、キリシタンたちが潜伏する神ノ島となったのだそうです。教会は内部撮影が禁止なので、内部を画像でお伝えできませんが、白く塗られたコリント式オーダーを模した寄丸柱から濃い茶に塗られたリブヴォールトの半円アーチがリズミカルに生え出て、ステンドグラス風窓から差し込む赤、青、黄、緑などに色付いた光が木の床や白い壁に写り込む美しさが印象的な教会です。
赤は太陽、青が天、黄が大地、緑が草木を表すのだそうです。バス停「神ノ島教会下」にて、モチノキでしょうか、赤い実と青空のコントラストが美しいとカメラを向けておりましたら、お客さまがいらっしゃいました。
バス移動で三度目の訪問となる大浦天主堂へ
お決まりのアングルでパチリ
昨年外海地方を訪ねた際、信徒の方から、この地域の多くの信徒が迫害を逃れるために五島列島に渡り信仰を守り続けたと伺いました。その信徒の思いは如何なるものであったのか・・・。そうそう判るはずはありませんが、何か感じることが出来ればと、今年は五島列島一番長崎寄りの中通島に渡ってみました。
長崎港から中通島有川港まで高速船で約1時間40分。小波立つ中手漕ぎの舟で渡れば一体何時間かかるのでしょうか? 信徒の方にお訊ねすると、25時間くらいと聞いています、辿り着けなかった人も相当いるのではないかとのことでした。移住は五島藩からの要請による荒地開墾という名目があったため、島での宗教的取り締まりは緩く、舟を漕ぎ続ける、海を渡るということを、迫害を逃れ信仰を守り続けるために越えなければならない苦難として受け止められたのでしょうか。集団で渡ったのであれば帆船が使えたのではないかとも思いたいのですが。
まずは、歴史のおさらい
1549年 ザビエル神父鹿児島上陸(キリスト教日本伝来)
1569年 織田信長キリスト教布教を許可
1582年 本能寺の変
1596年 サン=フェリペ号事件
1597年 豊臣秀吉26聖人処刑
1614年 禁教令の発布
1637年 島原の乱
1797年 外海から五島列島へ108人が入植。その後約3000人が続く。
1853年 ペリー来航
1864年 日本26聖人殉教者聖堂(大浦天主堂)竣工
1865年 信徒発見
1968年 五島崩れ
1873年 キリシタン禁制の高札が撤廃(キリスト教黙認となる)
神ノ島教会(建設:1897年)。長崎駅からバスで25分程のところにあります。神ノ島は地名ですが、戦前まではその名の通り舟でしか渡れない小さな島で、交通の不便さは禁教となったキリスト教をかくれ信仰を守り、キリシタンたちが潜伏する神ノ島となったのだそうです。教会は内部撮影が禁止なので、内部を画像でお伝えできませんが、白く塗られたコリント式オーダーを模した寄丸柱から濃い茶に塗られたリブヴォールトの半円アーチがリズミカルに生え出て、ステンドグラス風窓から差し込む赤、青、黄、緑などに色付いた光が木の床や白い壁に写り込む美しさが印象的な教会です。
赤は太陽、青が天、黄が大地、緑が草木を表すのだそうです。バス停「神ノ島教会下」にて、モチノキでしょうか、赤い実と青空のコントラストが美しいとカメラを向けておりましたら、お客さまがいらっしゃいました。
バス移動で三度目の訪問となる大浦天主堂へ
お決まりのアングルでパチリ
昨年外海地方を訪ねた際、信徒の方から、この地域の多くの信徒が迫害を逃れるために五島列島に渡り信仰を守り続けたと伺いました。その信徒の思いは如何なるものであったのか・・・。そうそう判るはずはありませんが、何か感じることが出来ればと、今年は五島列島一番長崎寄りの中通島に渡ってみました。
長崎港から中通島有川港まで高速船で約1時間40分。小波立つ中手漕ぎの舟で渡れば一体何時間かかるのでしょうか? 信徒の方にお訊ねすると、25時間くらいと聞いています、辿り着けなかった人も相当いるのではないかとのことでした。移住は五島藩からの要請による荒地開墾という名目があったため、島での宗教的取り締まりは緩く、舟を漕ぎ続ける、海を渡るということを、迫害を逃れ信仰を守り続けるために越えなければならない苦難として受け止められたのでしょうか。集団で渡ったのであれば帆船が使えたのではないかとも思いたいのですが。
「中通島の教会建築」へつづく