2017年10月23日

萬病根切窮理

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大正時代の家相図を拝見させて頂きました。
明治から大正にかけて地域一帯の家相見を担っていた松浦琴生(「萬病根切窮理」著者)の弟子松浦琴勝により大正7年に描かれたものです。
「萬病根切窮理」とは、明治22年に版された、家相と住み手の病の関係性に言及しその直し方を指導する書物の様です。

中八方15°割 東西南北に朱墨で十二支ではなくの加わった五行(木火土金水)が配され、そこに八つの門が割り当てられています。門称は、東(養門)、日(人門)、南(崇門)、南西(死門)、西(驚門)、西北(開門)、北(休門)、北東(鬼門)。
中国の占い「奇門遁甲」における八門の構成は、開門、休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門からなり、開門、休門、生門が大吉で景門が中吉、杜門、死門、傷門、驚門が凶とのこと。図は少しこれとは門称が異なるようです。
割合は東〜東南が「木」15°×4で間に「日」と「月」が各15°×1入り、南が「火」15°×3、南西が「土」15°×3、西〜西北が「金」15°×6、北が「水」15°×3、北東に「土」15°×3となっています。
「五行相生相克」というと私はピカチューを思い出しますが、紀元前の時代に万物の分析を試みたアリストテレスらの四元素説(火、空気、水、土)がギリシャから中国への距離を経て五行思想(木火土金水)へと拡がりさらに各要素の関係性まで掘り下げるに至ったとすると、その思想に真理があると信じた人々の気持ちは十分に理解できます。

どう間取りが配されているか、少し確認してみます。
東南「木」に大戸(玄関戸)、桑場、東南「木」から南「火」にかけて池(現在は蓮池)、蚕室、南「火」から南西「土」に庭、畑、南西「土」、西「金」に井戸、西、西北「金」に厠、西北「金」に裏木戸、東「木」に風呂、井戸。
黒く塗りつぶされた壁線が改修指示に当るのでしょうか。北西から北に「吉相」と朱墨で書かれた出張りの部屋が長く陣取り、東から北東にかかる位置にある味噌室にも「吉相」とあります。北東角には別紙が上張りされ間取り案の様なものが記されています。「大凶・凶・わろし」などの間取りを否定する記述は見られません。まあ、家相見だからといって立派なお宅にそうそう否定的なことは言えませんよね。

家族7人の年齢と九星法による星周りも書き添えられています。
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署名のところには「薬不用」と記されています。お決まりの文句のようですが、この家は漢方医のお宅なので、そんなこと書き添えて良いのかと笑えます。
地理風水 天地日月顕明 萬病根切窮理 薬不用 活業
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最後のところには、
      神仏や医師の薬も諸共に 萬病根切の窮理なりけり とあります。

 家が建ったのは江戸後期。何がきっかけで家相を見てもらうことになられたのか、その辺りのことは伺えておりませんが、他家の家相図には表記されていることのある臓器名称が記されていませんので、目的は病気を治すということではなかったのではないかと思います。
 テキストとなっている「萬病根切窮理」に記されている内容に目を通してみますと、方位と人体を対応させており、建物のある部分に不備があると、その方位に対応する体の部分が不健康になると説いているようです。
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 「首の方に火気を備え、腰の方に水気を備えていたら、転じさせて首の方に水気を備え、腰の方に火気を備えなさいよ、それは頭寒足熱法といい、そうしていれば身体が強くなります。それが天地自然の順理です。長年研究して数多くの経験によって判りました。」と、頭寒足熱法なんて、現代でも言われているようなことが記されてもいるのですが、実例として「南の大竈を東南に移したら宿病が全快した」とか、「北東東の浴室やトイレの溜桶を南南東に移したら忽ちお腹が治った」とかが次々と掲げられても・・・ねぇ、という感じがします。
 しかしながら、家相を見るということが、人間の健康と住まいの間取りに気を配ったとてもデリケートなものであったのか、単に中八方に当て嵌めただけのものであったのかどうか判りませんが、人々に住まいの間取りにおいて何か考える規範となるものが欲しいという思いがあり、松浦琴生がそれに応えようとしたのであれば、今ほど詳らかではなかった自然の摂理の理解から「萬病根切窮理」を上梓したということは、とても素晴らしいことであったのだと思います。
一枚の家相図がそんなことを考えさせてくれました。
大変貴重な資料に出会えたことに、感謝です。


chou23 at 21:13│Comments(0)study 

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