2017年06月15日

柳窪集落

北西5キロ先に狭山丘陵を背負った小平霊園の北側に、一見公的緑地かと見まごう一帯があります。「柳窪集落」と呼ばれるこの地域は、周辺が時代とともに変貌する中、敢てその流れに自主的に逆行し地に根を張り続ける大樹のごとく存在し続けることを選択した、貴重な環境を守り続ける人々の暮らす住宅地です。
柳窪
柳窪2
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私たちの暮らす町は都市計画上「市街化地域」と「市街化調整地域」に分けられています。其々は「市街化を促す地域」と「市街化するのを調整(抑制)し、農地等を確保する地域」ということになります。都市まちの発展パターンとしては「市街化地域」指定を受け宅地や施設等の建設を進めるというものが一般的で、都市部は殆ど「市街化地域」に指定されています。「柳窪集落」のある東久留米市でも、昭和45年12月26日に市域全域を市街化区域としました。
しかし、現代の宅地スタイルとはかけ離れた1000坪オーダーの屋敷林を持つ江戸時代から続く柳窪集落の民家は、現代のシステムには馴染めないことが多く、固定資産税の料率等も含めて立ち起こる様々な問題に翻弄され集落の解体を余儀なくされそうになってしまった。そこで、住民たちが知恵を絞り導き出したのが「逆線引き」という市街化地域から再び市街化調整地域に戻す手法で、今から27年前の平成2年3月9日に切り替えられました。このことにより、一帯約37000坪は開発の波から守られ、維持費等に課題が残りつつも、現在に至っているとのことです。財産評価額が下がる「逆線引き」という行為に対し住民各位の合意を得るということは、まとめ役を担われた方には相当大変なことだったであろうと推察します。

私はこのような地域がここにあるということを全く知らなかったのですが、女性建築技術者の会会員でこの地域に縁のある方にご紹介頂きました。一帯には江戸末期から大正末期に建てられた養蚕農家10軒があり、内1軒は電力王と言われた松永安左エ門が1930年に住民より譲り受け所沢(旧柳瀬村)の別荘「柳瀬荘」に『黄林閣』として移築し、戦後1948年には国へ寄贈され、1978年には国の重要文化財指定を受けています。内8軒は建物を今も暮らしに使っているとのこと。今回はその中の江戸末期から明治初期に建てられた5軒の民家を案内して頂きました。一帯は名字を同じとする世帯が多いため、お互いを屋号で呼び合う慣習があるとのことで、天神社の前にある「村野家住宅」は屋号を「天神前」と言い、江戸末期天保年間1838年に母屋が建設されました。2011年に屋敷内の主屋・離れ・土蔵・穀蔵・新蔵・薬医門・中雀門が国の登録有形文化財に指定され、屋敷は『顧想園』という名称で地域理解を深めるために期間を定めて見学会を行っています。写真撮影もOKとのことでしたので、ここに掲載させて頂きます。

主屋玄関
天神前主屋
当初はこのような立派な玄関はなく、昭和の初めに貴人を迎え入れる必要が生じた際に欅の式台を設けて増築されたとのこと。
玄関
「げんかん」
扁額は名称『顧想園』の由来となった国木田独歩「武蔵野」内の日記文
「午後林を訪う。林の奥に坐して四し、傾聴し、睇視し、黙す。」より
主屋玄関懸魚
屋根に懸る懸魚は寿老人が鶴に乗るお目出度い柄 奥には松と鷹の蟇股
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どま
当初より家人の出入り口(=玄関)であった「どま」
「みせ」から「かって」を見る
「どま」に隣接する「みせ」(6畳)から「いろり」を介して「かって」を見る
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三間見通し
客間である「おく」の間から「げんかん」を介して「どま」方向を見通す
障子
「おく」の間の近江八景を描いた摺りガラスの入る障子
近江八景摺りガラス
おくの間
矩折りに続く二つ目の「おく」の間
左手に見えるのは離れへと続く渡り廊下
障子・網干(あぼし)と帆舟
付け書院には網干と帆舟の障子
床柱の刀傷痕
床柱に残る1866(慶応2)年武州世直し一揆の刀傷痕

離れを見る村野家離れ
離れは三代目当主夫人の田無の実家で当初隠居所として造られたものが大正期に移築され、のちに玄関部が洋間に改装されました。
洋間
洋間外観
鉄格子
洋間の窓に付けられた竹モチーフの鉄格子
島村俊表作の欄間
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離れにも「ざしき」と呼ばれる畳敷きの十畳間が二間あり、付け書院には嶌村俊表作の欄間がかかっています。
春
土筆や蒲公英、菫と可愛らしい春が表現されています。
手洗い
花柄の摺りガラスの窓に面したトイレの手洗い
離れは女性の住まいであることが意識されたデザインとなっています。

鯉のぼり
敷地内にある狭山茶の茶畑で雄大に泳ぐ鯉のぼり
中雀門中雀門
見越しの松
中雀門 見越しの松
茶室「顧想庵」外観
顧想庵
足元に根府川石の拡がる濡縁
明治31年に建造された新蔵に付随する6畳の蔵座敷は、当初隠居部屋とされていましたが、昭和37年に茶室「顧想庵」として改装されました。
顧想庵 床
檳榔樹(ビンロウジュ)の床柱
お軸には「遠山無限碧層々」遠山限り無き碧層々
        『碧巌録』第二十則のようです。
想定樹齢180年の高野槇2
新蔵前に立つ想定樹齢180年の高野槇 再び


chou23 at 21:06│Comments(0)TrackBack(0)study 

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