2017年03月28日

うみやまあひだ

『うみやまあひだ〜伊勢神宮の森から響くメッセージ』というドキュメンタリーを観ました。平成17年から平成25年に掛けて行われた第62回神宮式年遷宮時の貴重な映像を観賞できることを期待して、どうして「うみとやまのあひだ」というタイトルではないのかな〜とタイトルから助詞を外した理由にもちょいと気を寄せて出かけたのですが、映像美もさることながら、神事の流れの中に溶けている事の理を滔々と映し出す、大切なことをとても上手に伝える作品でした。観終わりましたら、自らの疑問にもすんなり納得することが出来ました。

印象に残った中に「株祭り」という儀式がありました。御杣始祭という遷宮過程初めの方に執り行われる儀式の中に登場するお祭りです(リンク「御杣始祭」の5枚目の写真です)。
御杣山では樹木を切るとは言わず寝かすというそうですが、杣棟梁が寝かした樹木の切り株(母樹)に斧を打ち、そこに若い衆が取りに行ったてっぺんの小枝を挿し、杜の繁栄を祈る儀式を「株祭り」というのだそうです。数百年とかけて育った樹を伐採することの重みを受け止め、根を活かして次なる命へとつなぐ、その挿された小枝は母樹苔むす中で生き続け、枝分かれの数からは以降の年数が判るのだそうです。それにしても、古に、木を切ったらその切り株にその木のてっぺんの枝を挿してみようと、最初に思った一樵人の思いが愛しいです。

森の中からは信念を伝えることのできる言葉を持つ方々が次々と登場し、映像の説得力を上げてくれます。
法隆寺式か伊勢式か。創建がほぼ同じふたつの建物を、法隆寺では災害を受けての再建はあれど200年毎の大修理、20年毎の小修理で延命を考え、伊勢式は20年毎に新たに建てる。その度に伊勢は大量の良材が必要となる訳だがちゃんと材を育てることを考える。法隆寺は、創建時棟梁に1000年以上のスパンのイメージはなかっただろうが、「もつ技術」を考えた。伊勢においてはつくり続けられる環境をつくった。方法は違えどどちらも目的は同じと話すのは小川三夫棟梁。
他に子どもたちに手を抜くな、しっかり植えろと植樹を指導する宮脇昭さんや海は森の恋人、森は海の恋人(The forest is longing for the sea, the sea is longing for the forest.)、鎮守の海だってあっていいじゃないかという畠山 重篤さん、料理に「土」を取り入れた成澤由浩さんなどなど登場し、利便性あるものが乏しく情報も限られた古の時代に人の考えたことが正しいと、これまでもそして今にも感じられ支持されているということは、これからも、全ての人に原点から何かを見出す可能性があるのだと感じさせてくれました。


残念ながら映画館ではやっていないので、自主上映の機会を見つけるか、DVD・ブルーレイのセット版を購入するか(二枚もいらないから半額にしてって思いますけど)で観ることができます。オススメですよ!


さて、自身の疑問、なぜタイトルを「うみとやまのあいだ」とせず「うみやまあいだ」としたかにどう納得したかといいますと、「と」「の」を入れると「山と海を点に置き換え線で結んだその間」と場所を限定する印象が入り込む、外すと線が解けて柔らかく拡がり生態系全てに繋がっていく感じになる、だからだ。と私なりにカッテニ解釈致しました。

chou23 at 09:30│Comments(0)TrackBack(0)cinema 

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